志を遂げるために命を燃やし、29歳でこの世を去った維新の「精神的指導者」・吉田松陰
歴史上の人物を四柱推命で鑑定! 第17回 ~吉田松陰~
さて、ここで焦点を当てたいのが、自立心を持ち合わせていないことである。自立心は、「他人に依存することなく自分が信じた道を突き進む強い精神性」。松陰は強い精神をもって一貫して尊王攘夷論を唱えており、松下村塾においてリーダーシップも発揮した、というイメージである。と考えると、松陰の強い志は、幼少期の父・百合之助や叔父・玉木文之進による厳しい教育の賜物だろうか。百合之助や文之進は、皇室や楠木正成に関するものなどのテキストにして、農作業をしながら素読を教えたという。後に妹・千代が語ったところによると、「父も叔父も大変厳しい人であったので、幼児に対するものとは思えないようなことが度々あった。母はその側にいて見ることに耐えられなかった」という。幼児期の厳しい教育のお蔭で、自らの教育、考えに自信を持っていったのだろうか。
続いて、通変星、蔵干通変星を詳しく見ていく。
○主星・自星「食神(しょくじん)」:遊び心の星
おおらかで明るく人気者の星。遊ぶことが大好きで、おしゃべりで若く見える。
明るい性格だったかどうかは別として、松陰はおおらかな性格だったようである。松下村塾の塾生の一人、渡邉篙蔵は後に、「決して厳しい言い方をされる方ではなく、おもしろおかしい話をする人でもなかった。大人しい人だった」「言葉遣いが大変丁寧であった」等と述べている。
食神の特徴として、遊ぶことが大好きなため、興味のないことはやりたがらない。松下村塾において、松陰は講義の他、自分の読書、作文、飲食、寝起きも塾でしており、日々の行事等、時間割は決まっていなかったという。勉強の合間には、全員で外に出て草取り等をすることもあったということで、まさに自由気ままな松陰だったのだろう。常にやりたいことをやり、主張してきた松陰は、処刑の直前、伝馬町の獄舎で呼び出しの声を聴くと、懐紙を取り出しこう詠んでいる。「此の程に 思ひ定めし 出立は けふきくこそ 嬉しかりける」今自分が志を遂げるために死ねることが嬉しいと、最期の最期まで人生を謳歌したのである。松陰の首を斬った幕府首斬り役の山田浅右衛門の話を聞いた松村介右によると、その最期の態度は実に堂々たるもので、役人に一揖し「御苦労様」と言って端座した。その一糸乱れぬ態度には幕吏も深く感嘆したという。
また、主星はその人のオフィシャルな部分の性格を表し、自星はプライベートな部分の性格を表す星であるが、これらがいずれも「食神」という同じ星であるということは、オフィシャルとプライベートに変わりがない、裏表のない人物だったと見ることもできる。
○「偏官(へんかん)」:行動力の星
思い立ったら即行動の行動派タイプ。攻撃的な星でもある。いわゆるガツガツタイプ。
後先を考えずに行動するのがこの星の特徴であるが、松陰はあのペリーの黒船に乗り込み、アメリカに連れて行って欲しいと志願している。また、脱藩とみなされてまで東北遊学を行い、外国の脅威から守るため海岸線を見て回っている。思い立ったら即行動、これが松陰の信念だったのだろう。
また、穏やかな性格であったと伝わる反面、外国を打ち払おうとする攘夷の心はとても強い。松陰は、遺書「留魂録(りゅうこんろく)」の中の最後に「討たれたる 吾れをあわれと 見ん人は 君を崇めて 夷(えびす)払へよ」「七たびも 生きかえりつつ 夷をぞ 攘はんこころ 吾れ忘れめや」がある。要は、自分の代わりに外国を打ち払ってほしい、そして何度生まれ変わっても外国を打ち払おうという気持ちは変わらないという思いを込めているのである。松陰の攻撃性が伝わる。生きながらえていたら、欧米列強に戦いを挑んでいたことだろう。
○「傷官(しょうかん)」:遊び心の星
感性が鋭い芸術家タイプ。感情の起伏が激しく美意識が高い。男性で持っていると、ナイーブな性格になる。また、交渉能力に優れ、頭のいい星でもある。作家に向いている。
松陰は複数の書を著しており、中でも遺言となった「留魂録」は、松下村塾の塾生の原動力となった。「留魂録」の最初には、「身はたとひ 武蔵野の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」が刻まれており、今なお私達の心を揺さぶる。また、「留魂録」の最後には「愚かなる 吾れをも友と めづ人は わがとも友と めでよ人々」(愚かな自分を友と思ってくれる人は私の友のことも友と思ってほしい)は、2年前のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」のテーマソングにもなったが、松下村塾の生徒達の団結を促したことだろう。松陰は作家としても、人の琴線に触れる文章を生み出す天才だったのだろうか。
○「印綬(いんじゅ)」:知性の星
とにかく頭のいい星。学校の勉強がよくでき、学問好き。人に教えるのも好き。頭が良すぎるため、理屈っぽいところがあり、バカが嫌い。母親との縁が深く優しい性格。
圧倒的な知識量を持つ松陰のイメージがあるが、22歳で江戸遊学に訪れた際、江戸の学問レベルの高さに直面し、苦悩している。兄梅太郎に宛てた手紙に「頭が悪く、間抜けな私のようなものは、人が十歩、百歩進む間に、やっと一歩進めるという状況です。」と自身の浅学さを嘆いている。しかし、「死して後巳む(できるまでは決してやめない)という教えを持って、自分を戒めております」とも述べており、一月30回ほど勉強会に出席し、自己教育を行い、「落ちこぼれ」から立ち直ることができたという。そもそも、頭がよくないと自分の立ち位置もわからないわけで、学問好きだからこそ、状況そのから脱することができたのだろう。